ぼんやりした視界の左半分に茶色いものが映った。丸く突き出た上顎と下顎。その上にあるアーモンド型の黒目が、至近距離でこちらを凝視している。
「うわっ!?」
 思わず身を引いたシルビアは枕と布団にぶつかった。
 猿らしき何かは騒がしい鳴き声をあげると飛び跳ねてどこかへ行った。
 何だったんだ。
 変な目覚め方をしたので心臓が跳ねている。ゆっくりと息をして身を起こせば、薄手の布団が柔らかく折れ曲がった。胸元が軽いと思ったら、着ているのはクリーム色の病衣だ。

 そうか、寝ていたんだな。と窓の外の晴れ間を見やり、次いで点滴スタンドから自分の腕に管が続いているのに気づいた。
 ベッドの横には花とフルーツでいっぱいのキャビネットがある。メッセージカードを読もうとすると、また猿の声が近づいてきた。今度は別の足音がする。

「おはようシルビア。気分はどうだい?」
 猿に続いてまぶしい笑顔で入ってきたのは、ライオンのようなたてがみをもつエジプト人男性――ベスだ。
「おはよう。気分は……いいよ」シルビアは頭をかいた。「私はどのくらい寝ていたのかな?」
「三日だよ。日増しに花が増えるんで、テーブルを増やそうかと思ってたんだ」
 ベスが楽しそうに言ってベッドの背もたれを調節する。
「何か欲しいものはある?」
「ん……水が欲しいかな。口の中が気持ち悪い」
「歯磨きセットを持ってこようか」
「うん」と頷くとベスは毛をなびかせて病室を出て行った。

 そばにある丸椅子に座ったオランウータンをシルビアは見た。腕組みをした胸元にはルビーの付いた首飾りが下がっている。
「えっと……お見舞いありがとうございます。ブライト博士」
 彼はウホウホ、ウッホホと呟き、シルビアは対応に困った。彼ほどの頭脳でもオランウータンの体で人語を操ることはできないのだ。
 返答を練っているうちに彼はまた猿語で何事か喋った。
「博士、人間の助手か翻訳機はお持ちですか?」
 ブライトはよく伸びる唇を震わせて、空気の破裂する音をたてた。からかわれている気がする。

 戻ってきたベスが水と口腔ケアの道具をサイドテーブルに置く。それをシルビアのほうへ寄せて、
「ブライト博士には退席してもらうかい?」
 と言うなり、猿は前のめりになって唸り始めた。
 その声でシルビアは先ほど見た夢を思い出した。
「いや、それより、テープレコーダーはある? 夢にSCP-990が出たんだ」
「そりゃ大変だ」
 ベスは急ぎ足で出て行った。

 *

 あったことを一通り吹き終えて停止ボタンを押した。録音している間ブライトは静かにしていたが、テーブルの端にバナナの皮の山を作り出していた。見舞品を食べたのだ。
 
「そんなわけで初老の男性に縁のある日でした。ブライト博士はご存じですか? クレフ博士が宝くじを当てたことがあるかどうか」
 ブライトは唇をいじって黙っている。こうしていると本物のオランウータンのようだなとシルビアは思った。猿が板についてきている。
「まあ、多分あるんでしょうね。特殊な方ですし」
 短い鳴き声を同意と仮定して、話を続ける。
「博士は宝くじが当たったらどうしますか?」
 澄んだ目がシルビアの顔をじっと見つめ、それから口を開いた。
 シルビアは長台詞に耳を傾けた。おそらくは大金を手にした際の抱負に。しかし……。
「さっぱりわかりません」
 するとブライトは立ち上がってドラミングを始めた。
「やめて! なんですか急に!?」

「こら。うるさいよ」と、あまり怒った風でもないベスが顔を出す。
「ああベス、ちょっとこのお猿さんの言葉を翻訳してよ」
「いや、分からんよ。いくら俺が毛深くてもね」
 ベスは笑って、30分くらい後に先生が来るから、と言って顔をひっこめた。

「またブライト博士が人間に戻ったら話しましょうか。今日は来てくださって嬉しかったです」
 ウホウホ言うブライトにシルビアは笑いかけた。
「いつも今日みたいに『いたずらなし』だとありがたいんですけど……」
 ブライトはしばらく無言で胸毛をかいてから椅子を降り、毛におおわれた手をひらりと振った。
「はい。さよなら」

 彼の背中を見送って、シルビアはベッドに身を預けた。楽しかったが少し疲れた。
 それでも気力を出して水に手を伸ばすと、何やら医務室のほうが騒がしくなった。走らないでと聞こえた気がする。

 足音が迫ってきたかと思うと、白衣を翻したライツが病室に飛び込んできた。
「意識が戻ったのね!」
 勢いよくシルビアの手をとる。汗ばんでいるせいか甘い香りが鼻をくすぐる。
「よかった。本当によかった。あなたが無事で!」
 紅潮した表情につられてシルビアの口角が上がった。
「よほど急いで来てくれたんだね」
「だって、起きたって聞いたら嬉しくて! 廊下を走っちゃいけないなんて誰が言ったのかしら。みんな道をあけてくれたわ」
「アガサにぶつかりたくなかったんだろうね」
 マタドールのごとくライツをかわす通行人を想像して、シルビアは笑った。

「あなたに贈り物があるの」
 ライツは言って、細長い箱を手渡した。
 わくわくしながら包みを開けると、中から太くて透明なバイブレーターが覗いた。
「……収容違反?」
「違う違う! スキップじゃないダンよ。スイッチは4段階だから安心して」
「よく探してきたね」
「元気になってほしくてね」
 愛らしくウインクしたライツは花瓶の横にそれを立てて置いた。伏せるとか、引き出しに入れるとかの配慮をしてほしい。
「とにかくありがとう。気持ちが嬉しいよ」
「退院はいつ? ケーキを食べましょうよ」
「まだ分からないけど、すぐだと思うよ。どこも悪くないし」
「そうなの? シルビアって丈夫ね」

 病室のドアがコツコツと鳴った。
 返事の後に入ってきたのはグラスだった。私服姿で切り花を手にしている。
「ああ、アガサさんも来ていたのか。一足遅かったな」
「こんにちはグラス博士。休日なのにありがとうございます」シルビアは頭を下げた。
「気にしないで。連絡を受けたらいてもたってもいられなくて」
 グラスは穏やかな微笑を浮かべた。「花を飾っても?」

 どうぞ、とライツが場所をあける。
 キャビネットに近づいたグラスは固まった。花瓶の横にそそりたつ物品のためだろう。
「……これは?」
「私のプレゼント。297じゃなくて市販品よ」ライツが言う。
「ならよかった。……いや、いいのか?」
 首を傾げつつ持参した花を花瓶に加え、不要になったフィルムをグラスは丸めた。
「これは?」
 今度は積み上がったバナナの皮に目を留める。すっかり酸化して黒くなっている。
「それはブライト博士が」とシルビア。
「そう……なんだか混沌としてるね」

Awakening