雲が太陽を隠してからしばらく経った。陰った草の上で、私は理由もなく歩き回っていた。なぜだかじっとしていられない。君の横に座して目覚めを待とうとしても、心の奥がそわそわして足が動いてしまうのだった。
 君はまだ目を覚まさない。よほど疲れたのだろう。君が気を失って、そして私が落ち着いてから、乱れた着衣を直してやろうとしたのだが、ツルではうまくできなかった。かわりに涙の痕と、涎の痕をぬぐってやる。

 涼やかな風が吹き抜けて、私と君とをなでていった。すると、まぶたの下で眼球が滑り、眉がほんの少し中央に動いた。
「ん……」
 ついに、ついにだ。
 私はすかさず顔の横へ移動した。目を開けてすぐ視界に入るように。
 ようやく私たちはまともに話をする。君が怒鳴ろうと恨み節を言おうと平気だ。なぜなら君は私を識ってくれたのだから。消えた宿主ではなく私を、この体に見出してくれるはずだ。
 目を開けた君は、あれ、と舌っ足らずに言ってから、大儀そうに体を起こした。そして私を見るや、座った状態のまま後ろに下がった。
「や……やめて……もう」
「もうしないさ」
 少なくとも今は。
 私の言葉が人間に伝わるはずはないのだが、君は不思議と距離を置くのをやめた。

「私……帰らなきゃ」
 君は立ち上がると着衣を直した。次いでほこりを払う。目が合って、何か言いたそうな顔をしたものの、口をぎゅっと引き結んで「さよなら」とだけ言った。そのまま足早に私の前から立ち去ってしまう。
 私は忘れ物に気づいた。クッキーの入った籠が草の上にある。彼女を押し倒した際に中身がこぼれてしまっていたので、それを籠に戻した。
 これは、届けてやらねばなるまい。
 私は甘い匂いのほかに漂う君の匂いをたどって、家に向かった。しばらく歩くと森に近い村があり、そこの一軒家にたどり着いた。玄関前に籠を置く。ノックしようか迷ったが、狼藉に怒った家族が出てこないとも限らないので、やめておいた。身の危険は避けたい。
 けれども君のことは気になるので、あるいは出てきやしないかと家の陰から玄関を見つめた。その日はそのまま夜になった。

 森に戻り、数日待ったものの君は来なかった。私は悶々としていた。君が私を認識してくれたのか、それだけが気になっていた。
 時折、この間の柔肌と熱を反芻したり、宿主がいた頃の笑顔などを思い出したりしていた。おそらくはもう見せることのない表情を。
 やはり嫌われたのだろう。もう森に来ることはない。そう結論づけた私は、少しの危険を冒してもう一度家へ行くことにした。

 朝露を踏みながら家へ行くと、君はちょうど外にいて、洗濯物を干していた。が、私を見るやいなや小さく悲鳴をあげた。
「こっちに来ないで」
 私は言葉通りにして様子を見た。すると従順な態度に安心したのか、君はゆっくりと口を開いた。
「私、本でパラセクトのことを調べたの。そしたら、虫じゃなくてキノコのほうが本体だって……。たくさん遊んだパラスは、もういないのね」
 君は目を閉じた。
「間違えててごめんね。それだけ謝りたくて」

 私は踊り出しそうになった。ついに認識されたのだ! ついに! 襲って正解だったなと独り頷く。そして気づけば近づいて、君の頭をツルで撫でているのだった。
「なんで優しく触るの? あんなことをしたのに……。私、あなたがわからない」
 みるみるうちに君の双眸に涙があふれた。ぽろりとこぼれる雫を美しいと思う。宿主には泣くことがなかったので、密かな優越感もある。

「ああいうのは好きな人とすることだって、お母さんが言ってたの。あなた、私のこと好きなの……?」
(好き、とは?)
 私は首を傾げた。考えてもよくわからない。
「執着はしてるね」
 私の返事を是と取ったのか、君は手を伸ばしてキノコの部分を恐る恐るといった感じで撫でた。
「私もあなたのこと好きになれたら……いいんだけど」
 涙声のまま微笑を浮かべた君を見て、私の胸に何か新たな感情が芽生えるのを感じた。

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