常連さんに恋心を抱いてしまった。
 毎朝ほぼ同じ時間に来る、目の覚めるような紫色のあの人。二度三度と対面するうちに、クールな雰囲気に加え、精悍な顔立ちも相まって覚えてしまった。
 オーダー以外の言葉を交わしたことはない。
 店員に顔を覚えられると店に行けなくなる人もいると聞く。余計なことは言わないのが賢明だ。
 それでも、親しくなってみたいという欲が出てしまった。
 ある日、彼が「たまごサンド。野菜多め」と言うよりも早く、ユメは勇気を出して「いつものでよろしいですか」と尋ねた。
 しばし間を置いてから、想い人は「ああ」と頷く。
 願わくば今のやりとりが許容範囲であってほしい。ユメは一抹の不安を抱えながら商品を受け渡し、コートを翻す背中を見送った。
 以後はずっと悶々としていたのだが、翌朝、変わらず彼が来店したときは心底ホッとした。
「おはようございます」
「……いつものを頼む」
 その言葉が耳に届いた瞬間、ユメの胸に喜びが広がった。
「かしこまりました!」
 サンドイッチを作りながら、口元が緩むのをこらえきれない。
 それからというもの、彼は決まって「いつもの」と注文してくれるようになった。わずかに進展した関係にユメは浮かれた。
 しかし、人間というものは味をしめる生き物で、一週間もするとさらに次の段階に踏み込みたくなった。
 連絡先を渡すことも考えたが、まだそんな段階ではないはずだ。結局、少しばかり世間話をしてみようという結論に落ち着いた。
 商品が出来上がり、彼が財布を開くちょっとした隙にユメは口を開いた。
「サンドイッチがお好きなんですね」
「好きというほどでもない」
 小銭をカルトンに置いた彼と目が合った。
「会いたいやつの顔が見れるついでに、腹が満たせるから来ているだけだ」
「そ、そうなんですね」
 とっさに相槌を打ちつつ、釣り銭を渡す。
(会いたいやつ? 私のこと? え、それって――)
 ユメの混乱をよそに、彼は「オレの名はヒットだ」と続けた。
「ヒット、さん……」
「おまえは?」
「ユメです」
「そうか」
 ヒットは赤い眼を細めた。
「またな、ユメ」
 呆けて立ち尽くしたユメは仕事に戻るのに時間を要した。
 ようやく判明した想い人の名前と、ほのかな可能性が胸に炎を灯していた。

一歩一歩