ずっとパソコンに向き合っていた私は、口に含んだコーヒーが冷めているのに気づいて時計を見た。いつもならとっくに帰宅して、お風呂に入っている頃だ。
 休憩を入れよう。
 そう思って、腰を浮かせた。固まりかけた身体をうんと伸ばす。
 誰もいないオフィスはとても静かで、深海に潜っているみたいだった。私のデスクの周りだけが取り残されたように明るい。
 けれど、光の届かない端っこは黒いベールに覆われていて、なんだか……薄気味の悪いものが棲んでいるような気がした。

 そんなことを考えているときだったから、突如鳴り出した携帯に心臓が飛び出した。
 携帯を手にとり、画面を見て、思わず頬が緩む。私はだらしない口元のまま、夜のあいさつを交わした。

「“これから” “遊覧飛行でも”」

 サウンドウェーブが言った。
 胸がちくりと痛む。すぐにでも仕事を放り出して誘いに乗りたいところだけど、今日ばかりはそうはいかないのだ。

「ごめんね。すごく行きたいけど……片づけないといけない仕事があって」

 気づまりな沈黙が流れた。
 サウンドウェーブはとにかく多忙で、私と休みが重なることはほとんどない。なんでも世界中を飛びまわる仕事らしく、彼が暇をもらっても地球の裏で私が寝ていることが多い。だからこんな機会、めったにないのに。

「本当にごめんなさい」
 重ねて謝ろうとしたところを、サウンドウェーブがさえぎった。
「“いや” “お疲れ様”」

 うん、この電話を糧に頑張ろう。あともう数時間は集中できる気がする。私は後ろ髪を引かれる思いで「また誘ってね」と言おうとした。
 でも……ちがう。ほんとは会いたい。

「会いたいな」
 思ったら、声に出ていた。
 ぶつんと電話が切れる。思いがけない反応に一瞬、思考が止まった。
 怒らせてしまった? それとも急用だろうか。通話時間を眺めたまま、私の頭は答えを求めて行ったり来たりした。戸惑いに焦りが広がっていく。

 すると、メールが届いた。差出人はサウンドウェーブ。件名はなく、本文に「3EIEH」とだけ書かれている。
「えいえ……?」
 読めない。けど彼のことだから、なにか意味があるんだろう。携帯をひっくり返したり辞書を引いたりして首をひねっていると、鬼のような改行を挟んで続きがあることに気づいた。

「キーボードを見て」とのこと。

 私はちょっとわくわくしながら、例の文字列を照らし合わせていった。
 そしてメッセージの意味が解ったとき、胸にぽっと灯りがともった。取り急ぎブラインドを開けた。

夜の帳

(あいにいく)