とあるサイトの昼下がり。
 警備についていたシルビアは突如鳴り出したサイレンに肩を跳ね上げた。続いて聞こえてきたアナウンスに眉を寄せる。
「あんのジジイ、まーた脱走しやがったか……」
 SCP-106の収容違反が起きたのだ。各部屋をつなぐ通路のほうが、にわかに騒がしくなる。
 少しばかり頭痛がしてきて、シルビアはこめかみを押さえた。
 もともとSCP-106の悪趣味な捕獲手順には嫌悪感を抱いていたのだが、前回の脱走でロッカーの貴重品を溶かされてから、ますますあの腐食性の老人が嫌になったのだ。
 初任給で買った思い出の財布を返してほしい。
 そして、できることなら腹ペコバッグにのまれて消滅してほしい。

 ふいに無線機が鳴った。
「司令部からシルビア。聞こえるか?」
「感度良好です。どうぞ」
「ただちに非戦闘員の誘導に向かってくれ。そこのオブジェクトはこちらで見張っておく」
「了解しました」
 応答するなり、シルビアは駆けだした。
 シェルターへ急ぐ職員たちの間をぬって、各所に逃げ遅れた者がいないかを見ていく。まれに避難の列からはぐれた人間が右往左往しているからだ。
 シルビアは迷える職員を見つけては正しい方向を指し示し、慣れない非常事態にすくみ上がっている者を、なんとか鼓舞して移動させた。
 ときおり響く爆音に対応部隊の健闘を祈りながら、残った区画を見回る。

 やがて、ある通路でうずくまった研究員を見つけた。白衣を着た背中を丸め、忙しなく足元を探っている。
「ねえ、きみ! どうしたの?」
「眼鏡がないんだよ!」彼はヒステリックに叫んだ。「あれがなきゃ僕はほとんど見えないんだ!」
 シルビアは周囲に視線を走らせたが、それらしきものは見当たらなかった。
「ここで無くしたのは確かなの?」
「この辺のはずだよ。人にぶつかって外れたんだが、誰も気づきやしない!」
 さては人に蹴られて飛んでいったな。
 そう見当をつけて彼から離れた曲がり角を見に行くと、あった。レンズとフレームの割れた無惨な眼鏡が。
 受け取った研究員は青ざめた。
「だめだ……もう動けない……」
「落ち着いて。きみのオフィスはこの近く? 眼鏡の替えはある?」
「あるにはあるけど、行けない。オールドマンの収容室のそばだから」
「それじゃ、私と一緒にシェルターまで行こうか。ね、それがいい」
 不安げに頷く研究員に、シルビアは腕を差し出した。
「さあ、つかまって」

 二人は通路を小走りで急いだ。研究員の目がろくに見えていないので、全速力とはいかない。
 ほかに人影はなく、シルビアは避難が完了しつつあることへの安堵と、取り残された自分たちへの焦りを感じた。
 危険を冒してでも替えの眼鏡を取ってきたほうが、結果的に早く避難できただろうか―― 。
 そうも思ったが、すぐに打ち消した。
 収容室のほうへ向かっては、いつオールドマンに出くわすか分からない。いくら動きが鈍くても、相手は壁をすり抜けられるのだ。近づかないに越したことはない。
「もうすぐ着くから」
 共に走る研究員を見やると、彼は息を切らして頷いた。
 進行方向に向き直った、その時。
 研究員がワッと叫んだ。
 同時に腕を強く引かれて、シルビアはバランスを崩した。
 手をついたはずの床が柔らかい。
 黒い、沼になっている。
 ぞっとした。
 研究員は転んだのか、すでに半身を沈めている。
 抜け出そうとしたシルビアは、腹に衝撃を受けた。

 目を覚ますと見慣れぬホールにいた。
 ポケットディメンション。真っ先にその言葉が浮かんだ。SCP-106の箱庭ともいえる異空間へ引きずり込まれたのである。
 うかつだった。歯を食いしばりながら装備を確認する。オールドマンの攻撃を受けたのだろう、黒い粘液で溶けかかったベストを脱ぎ捨てた。幸い身体に損傷はない。
 とはいえ、ここへ連れ込まれることと死はほとんど同義だ。
 オールドマンは捕まえた人間をポケットディメンションに閉じこめ、あえて泳がせてから弄ぶのだという。
 体力と気力さえもてば逃げ続けられるかもしれないが、そうしたところで助けがくるとは思えない。
 終わらない追いかけっこを思って、シルビアはげんなりした。
「出口を探さなきゃ……」
 そう、うわごとのように呟く。
 目標を掲げないと動けなくなりそうだった。オールドマンへのいらだちで燃えていた心が、死の恐怖に震え始めている。
 気を紛らわせようと無線機を操作した。動きはするが、聞こえてくるのはノイズばかりだ。送話も怪しい。
 仕方なくベストから使えそうな物を抜き取って、レッグポーチに詰め込んだ。

 すると、壁の向こうから何者かのうめき声がした。弾かれたように音のしたほうを見る。しばらく耳を澄ませたが、オールドマンが人を襲っているようではない。
 おそるおそる部屋につながるドアを開くと、先ほどの研究員が腹這いになっていた。
「無事か!?」
 駆け寄るシルビアに気づいて、苦しげに顔を上げた。額に汗が浮かんでいる。
「いや、足をやられた」
 彼の足首とふくらはぎは服ごと燃え尽きたように黒ずんでいた。
「ひどいな……」
 シルビアの声が沈む。取り急ぎ、手持ちの止血帯を彼の腿に巻いた。これだけで腐食が止まるとは思えないが、やらないよりましだ。
「すまない。私が別のルートを通っていれば、こんなことには――」
「よしてくれ。どのみち僕は今日死ぬ運命だったんだ。財団の契約書にサインした時点で、こうなることは決まってたさ」
 悔しさと諦念の入り交じった声音は、どこか自分に言い聞かせるような響きがあった。

 彼の気持ちが分かるような気がした。
 シルビアは警備員になるとき、己の死期が早まることを予感した。なにせ怪異と災厄の保管庫である。定年までには死ぬだろうと思った。
 しかし実際に死が迫ってみると、唐突すぎて、とても受け入れられない。心の準備など、できてはいなかったのだ。

「私は出口を探そうと思う」シルビアは言った。
「出口だって? これまで自力で脱出できた人間はいないんだぞ」
「わかってるよ。でも、なぶられるのをただ待ちたくはないだろ」
「そりゃそうだけど。……僕はもう無理だ。歩けない」
「私が運ぶよ」
 研究員の瞳に光がさした。
「しかし、足手まといにならないか」
「気にしないで。 置いていったら寝覚めが悪いからね。きみのためというより、多分、自分のためだよ」
「なんだっていいさ。助かる」
 研究員は膝立ちになった。シルビアは屈んだ背中を彼に向けて、両膝を引き寄せようとした。
「念のため言っておくけど、僕の足首には触らないほうが――」
 言葉尻は凍てつくような悲鳴に変わった。
 振り向けば、粘着質な笑みを浮かべたオールドマンが研究員の足をつかんでいる。黒々とした目がわかるほどに近い。
 シルビアはこわばる体にむち打って、閃光弾のピンを抜き、投げた。
 瞬間、まばゆい光と轟音が襲った。閉じた瞼にすら光が焼けつく。
 音でくらくらする頭をなんとか保ち、研究員の膝裏を今度こそ抱え込んで、無我夢中で走った。

(くそ! くそっ!)
 悪態ばかりが浮かんでくる。
(なんでよりによってオールドマンなんだ!? 大トカゲなら一瞬で殺してくれそうなのに!)
 どうせ死ぬのなら恐怖も痛みも感じないうちに終わるほうがよかった。
 なぜ106なのか。なぜ自分なのか。考えても答えは出ない。
 行けども行けども、緑の誘導灯は見えてこなかった。
 腕が疲れた。息が苦しい。
 そのうちシルビアは足を止めた。荒い息をついて、あたりを見渡す。
「撒いたか……?」
 言ってから、シルビアはこの台詞がフィクションでよくある捕まるフラグだということに気づいた。
 疲弊した体をおして、もう二部屋ほど移動した。

「ごめん、いったん降ろす」
 背負っていた研究員を壁にもたれさせ、自身も古びた絨毯の上に腰を下ろした。
 研究員は静かに泣いていた。
 思えばかわいそうなことをした。
 警告もなしに閃光弾を使ったことをシルビアがわびると、彼は首を横に振った。袖で涙を拭う。
「いいんだ。おかげで逃げられた」
「少し休んだら移動するよ」
「ひとつ、考えてたことがあるんだが……」
「なに?」
「出口があるとしたら、それはオールドマンだと思うんだ」
 疑問符を浮かべるシルビアを見て、研究員は言葉を重ねた。
「ポケットディメンションへの出入りにはあいつの接触が伴う。きみも連れ込まれるとき触られただろ?」
 シルビアは頷いた。「腹パンされた」
「つまり、外に出る鍵はSCP-106だ。もちろん、どこかの部屋から脱出できる可能性も信じたいが、いかんせん広い。出口を見つける前に力尽きるだろうね。少なくとも僕は」
「それで、どうすればいい?」
「あいつが僕らへの興味を失うまで逃げるんだ。で、新たな獲物を捕まえに戻る瞬間を見計らって、一緒に飛び込む」
「……勇気がいるね」
「うん、無謀だ。もしかしたら粘液に沈んで死ぬだけかもしれない。そもそも僕らに飽きてくれるのか、それすら――」
 シルビアは勢いよく研究員の手を引いた。彼が体を預けていた壁に黒い染みが広がったかと思うと、突き出た腕が空をかいた。
 研究員を引きずって距離を稼ぎながら、シルビアは全身を現したオールドマンと部屋のドアを見やった。どうやっても背負う暇がない。
「さっきの話、乗った!」
「え!?」
 研究員が上ずった声で聞き返してくる。
 脱出の鍵がオールドマンであれば、彼そのものに飛び込んでみるのも手だ。
 きっと出られる。いや、出られるに違いない。
 もはやそう信じるしかなかった。
 シルビアは、黒い老体に突進した。

薄闇に惑う