新たな持ち場のドアを開くと、中にいた警備員が振り向いた。
「ようシルビア、待ってたよ」
「お疲れ様です。交代しましょう」
 シルビアはデスクに近寄り、監視モニターを覗きこんだ。
「どんな様子です?」
「大人しいもんだよ」彼は言って、あくびをした。「一時間ほど前から讃美歌のレパートリーを披露し始めてな……俺の瞼はもう限界だ」もう一つあくびをした。
「あとはまあ、引き継いだ通りだから。よろしく頼む」シルビアの肩をぽんと叩き、彼はおぼつかない足取りで退室した。
SCP-049 - Plague Doctor (ペスト医師)
 シルビアは席についた。モニターは独房の中の黒衣を映している。
 ドキュメントを熟読したとはいえ、実際目にすると緊張が走る。いつもそうだ。受け持ったSCPオブジェクトは数多いが、異動のたびに未知のものに対する畏怖の念と、多大な興味が押し寄せる。シルビアはその感覚が好きだった。

「さて……どうしようか」
 SCP-049が不審な行動をしたら、すぐさま報告することになっている。しかし今のところその心配はなさそうだった。
 彼は機嫌が良いようで、座ったまま鼻歌を歌っている。穏やかな響きだ。
 中断させるのも悪いと思い、黙って監視することにした。着任の挨拶はいつでもできる。

 あのマスク、何かに似ているな……。シルビアはふと思った。
 鳥の嘴にそっくりなのだが、それ以上に……そう、鳥のキャラクターを彷彿とさせる。日本の菓子箱に載っている、きょろりとした目元が愛らしく、大きな嘴をもつ鳥だ。

 いや、あのマスクは豆をついばむためのものではない。
 当時、黒死病は悪性の空気によって感染すると考えられていたから、ペスト医師はその嘴の中にハーブや香料を詰めたそうだ。
 SCP-049もいい香りがするのだろうか。
 シルビアの脳裏にまたも取るに足らない疑問が浮かんだが、それを確かめるのは容易なことではない。彼に近づいたが最後、触れられた人間は死亡する。

 しかも、彼は厄介な「治療」をするんだよなあ……とモニターの影を注視すると、讃美歌がぴたりと止んだ。
 SCP-049はカメラの方をじっと見つめ、それからぽつりと、「眩しい」と言った。
(眩しい? 何が?)
 独房に窓はない。だから陽が差すことはないし、唯一の光源である電灯も光度を抑えてある。

 シルビアはおそるおそるボタンを押して、「何がだい?」と尋ねた。
 彼はそれには答えず、
「初めて聞く声だ。さては配置換えがあったね?」
 静かな声で言って、脚を組んだ。
「うん、お察しの通り。鋭いね君は。そうだ、君のことはどう呼べばいい?」
「なんとでも。好きに呼ぶがいいさ、淑女君」
 シルビアはくすぐったくなった。
「私はどうも淑女って柄じゃないな。シルビアと呼んでよ。君は……そうだな、ドクターと呼ぼうか? なんのひねりもないけど」
「私の専門は治療する事だからね」
「ところでドクター、今日はいいことでもあったのかい? 長い間讃美歌を歌っていたようだね」
 シルビアが訊くと、SCP-049は少し間をおいて、「患者達の事を思い出していたんだよ」と言った。
「ふうん……君が治療した人について?」
「時々考えるんだ。彼らは死の恐怖から解放された。もはや如何なるものにも縛られる事は無いんだとね」
 嘴のマスクは見えない空を仰いだ。
「そうすると、私の心は幾らか満ち足りるのだよ」
 そしてSCP-049は、再び鼻歌を歌い始めた。

追想