休日の朝、同僚の言葉を思い出したシルビアはソーイングルームに向かった。
「フランス国王に献上する服を作るのが大変なのよ! 今回のリクエストはロリータファッションでね。朝から晩までレースのフリルを縫ってるの。地獄よ。地獄。人員増やしてほしいわ」
 そう語った彼女はデザイナー上がりの財団職員である。この頃はSCP-082の衣装製作を担当している。
 フェルナンド――またの名をフランス国王、吸血鬼、その他諸々――には仮装の趣味があり、様々な服をとっかえひっかえする。彼の巨体に見合う服がそこいらの店にあるはずもないので、洋裁に長けた人物が製作にあたるのだ。
SCP-082 - "Fernand" the Cannibal (食人鬼フェルナンド)
 ソーイングルームに知り合いはいなかった。
 シルビアは隅のミシンに布を持ってきて腰かけた。ハンカチを作るのだ。
 さして得意でもない裁縫をしようと考えたのは、暇潰しと同僚への援助、そしてフェルナンドへの親愛の情からだった。

 シルビアは以前、フェルナンドを担当したことがあった。
 取扱方の通りに彼との接触は控えていたが、それでも顔を合わせることがあれば食事に誘われた。
 その度にシルビアは忌引きを装って、フェルナンドは哀悼の意を表した。彼は「食事のマナーを失する」ことを除けば、礼儀正しい人物だ。
 しばらくして、親戚があらかた亡くなったところで転属となった。
 今思えば、もっとましな断り方があったはずだった。彼は今でもシルビアを天涯孤独の身だと思っている。
「よしよし。できた」
 縫い終わったハンカチを畳んだ。表地に苺柄の布を使ったから、歯ぎしりの血をふいても目立たないだろう。

 自室に戻る途中、通路の先に不審な人物を見つけて足を止めた。
(あの横顔は……コンドラキ博士か)
 彼は何やら自身のオフィスの中を見たまま動かない。――いや、よく見ると僅かずつ後退している。
 嫌な予感がした。けれども、わざわざ迂回するのも面倒だった。

「どうしたんです?」
「シルビアか! 早く来てくれ!」彼はオフィスを凝視したまま叫んだ。「瞬きができねぇ!」
 その一言で、シルビアの脳裏にあるスキップが浮かんだ。
「ま……まさか173が?」
「そのまさかだ! クソッ! なんだってアイツが俺のオフィスにいるんだ!?」
 コンドラキの横に駆けつけると、やはり視線の先にはSCP-173がいた。目を離したら即アウトの彫刻だ。
 シルビアはごくりと生唾を飲んだ。
「おい、奴を見ていてくれよ。今瞬きするから」
 少しだけ目を潤したコンドラキは、一つ息をついた。
「いいか、背後にある扉を開けて、入って、閉めて、助けを呼ぶんだ。あのクソッタレは対応チームに任せる。俺らじゃどうにもならない」
「はい。わかりました」
「くれぐれも、瞬きの前に合図を忘れるなよ」
「もちろんです」

「じゃ、俺が先に行く」
 コンドラキが視界から消え、後退する足音が聞こえ、彼の短い叫びと床を震わせる重低音が響いた。転んだらしい。
「博士! 無事ですか?」
 思わず振り返りそうになる顔を173に固定しつつ、シルビアは尋ねた。
「誰だ、こんな所に油を撒きやがったのは!?」
 コンドラキは散々悪態をついたあと立ち上がろうとしたが、またしても転んだ。
「コンドラキ博士、私そろそろ瞬きをしないと……」
「待てシルビア、タイミングを考えろ! 今は無理だ!」
 言いながら、まだコンドラキはもがいている。シルビアは必死の思いで瞳の乾きに耐えた。
「もう、何やってるんですか! 貴方は生まれたての小鹿ですか! 早く立ってください!」
 急き立てるもコンドラキは床を滑るばかり。
 空気に晒され続けた眼球が、とうとう悲鳴をあげた。
「あーだめ! 限界!」
 目を閉じる瞬間、シルビアは己が魚類でないことを悔やんだ。
(私は173に首を折られて死ぬのか――)

 一瞬の闇の後、目に入ったのは河原でも花畑でもなく、先ほどと変わらない風景だった。SCP-173は少しも動いていない。
「あれ? 博士、今173を見ていてくれたんですか?」
「いや全く。……え? お前瞬きしたの?」
「しました。確かに」
 途端に疑念を抱いたシルビアは、覚悟を決めて人型の彫刻に詰め寄った。
 そこで初めて、油にまみれたコンドラキを振り返った。
「これ……作り物です」

注視すべきもの