田園地帯に一台のパトカーが停まっていた。蛙の騒ぐ声を聞きながら、パトランプは闇に浮かぶ時計を見つめた。午後7時3分。そろそろだ。
 手元の携帯端末に目を落とす。地図の上に表示された赤い点が、ようやく動き出した。
 わくわくしてきた。
 まだ時間があるので、パトランプは彼女に思いを馳せた。

 出会ったのは巡回連絡の時だった。
 家から出てきた女性にパトランプは心を奪われた。柔和に微笑むその顔が、まるで聖母のようだと思ったものの口には出さず、何か困りごとがないかと訊いた。
 彼女は首を横に振り、パトランプが差し出したカードに氏名や勤務先などを記入した。
 ――夜野ユメというのか。
 カードを受け取ったパトランプはユメという名前を何度も反芻した。いい響きだった。
 後ろ髪を引かれる思いでその場をあとにし、各戸を訪問したあと署に戻った。

 数日経っても、彼女はいつも頭の片隅にいた。ユメの存在が励みになり、心なしか仕事にも力が入る。終業後に思うのは決まってユメのことだった。
 また会いたい。
 その気持ちが日増しにつのって、パトランプは少しだけ禁を犯した。偶然を装って再会できないかと、彼女の家の近くのスーパーへ通い始めたのだ。
 仕事で知り得た個人情報を私用するなどあってはならないことだったが、これくらいなら問題ないと自分に言い聞かせ、仕事帰りに寄る日が続いた。

 そんなある日、念願叶ってユメと出会った。通路の向こう側から歩いてくる彼女と確かに目が合った――が、ユメはついと視線を逸らして商品を選び始めた。
 パトランプは衝撃に打たれて立ちすくんだ。用意していた挨拶が喉につかえて出てこない。特徴的だと自負している自分を見ても反応がないということは、再認するには遅すぎたのだ。
 自分は彼女の長期記憶にはなれなかった。消えてしまったのだ。彼女の世界から。

 その瞬間から、ユメとの間には如何ともしがたい隔たりがあることに気づいてしまった。
 映画泥棒を捕まえても、刃物を持った強盗を取り押さえても。ユメには何らつながらない。虚しさばかりがつのる。彼女は自分の手の届くところに来てはくれない。自分の人生の延長線上にいないのだ。
 次第に怒りがこみ上げてきた。
 彼女を捕まえればいい、と思いつき、パトランプは下準備を始めた。家に出向き、ユメの車にGPS発信機を取り付けた。行動を監視して弱みを握るために。
 そして、ようやくほころびを見つけた。ユメは会社から帰宅する時に、わりとスピードを出すのだ。制限速度を超えて走ることが習慣になっているらしかった。
 捕まえる理由を見つけて、パトランプはほくそ笑んだ。

 白い手袋が手汗で湿ってきた。パトランプは車の窓を開けて、ランプを布で拭いた。
 ユメの車が現在地に近づいてくる。
 さあ、出せ。スピードを。
 制限速度を超えろ。
 パトランプの中で薄暗い炎が燃え上がった。
 スピードガンは68キロを記録した。すぐにサイレンを鳴らす。
 戸惑ったようなブレーキランプのあと、ユメの車は停止した。パトランプは歩いて行って、窓ガラスが開くのを待った。

「なぜ車を止められたか分かるかな」
「はい。スピード、ですよね」
 ユメはパトランプの顔を見られずに、胸ポケットのあたりを見ている。
「ここは何キロ制限か知っているか?」
「40キロでしょうか」
「そう。君は何キロで走っていた?」
 ユメは言いにくそうに「60キロくらい……」と呟いた。正直に答えるのだからいじらしい。
「68キロだ」
 25キロも超過している、と告げると彼女はとうとう黙ってしまった。
 パトランプは青切符を渡して、書くように促した。
 かわいそうに、ペンを握る手は震えてしまっている。

「他の処罰も、無くはないんだ」
 顔を上げたユメの顔に期待と不安の色が見て取れた。
「……そうなんですか?」
「外に出て」
 そう言うとユメはおずおずと車から降りた。
「私のパトカーへ来て」
 歩くパトランプのあとを彼女は稚児のようについてきて、ドアのそばで止まった。パトカーに乗るのか迷っているのだろう。
「こっちを向いて、サイドミラーを触って」
「はい?」
「ミラーを触って」
 こうですか、とユメが言葉通りにする。その手首に手錠をかけ、もう一方をミラーの付け根につなげる。
「えっ……何ですか?」
 うろたえるユメの顎を持ち上げ、強引に口付ける。ユメはぎゅっと目を閉じて、パトランプの胸を押し返した。けれども力の差でどうにもできない。
 パトランプは気の済むまでそうしていた。顔を離すと彼女は苦しげに息をする。
 動かないように、とだけ言って、顎を支えていた手を鎖骨から脇腹、腰へと動かしていく。
「嫌! 嫌です、こんな……!」
 細い悲鳴が嗜虐心をくすぐる。誰も通らない田んぼ道で、ふたりだけが異常な熱を放っていた。

黒炎