草色のドラゴンの背に揺られていた女性は、たまらず声を上げた。
「あの! もう少し――」
 跳躍した反動で言葉が途切れる。落ちるまいと角を握る手は石のように強張って冷たい。
「もう少し速度を落としてください……!」
 さもないと酔いそうだ。
 馬にもろくに乗ったことがないというのに、魔物に乗せられて自分はどこへ連れて行かれるというのか。
 懇願が耳に届いたらしいドラゴンが地を蹴る足を緩める。
 これで少しは良くなった。
 おそるおそる来た方を振り返ると、ラダトーム城は遥か遠くに消えようとしていた。助けが来る様子はない。
(そう……よね。仕方がない)
 突然のことだったし、と自らに言い聞かせる。遅れて馬を出したところで救出の保証はないのだ。
 罠だったら? ドラゴンに敵わなかったら?
 たったひとりの使用人のために幾人もの兵士を危険にさらす必要はない。
 それでも……本当は助けてほしい。
 切々と増していく絶望を感じながら、シェリーは唇をかんだ。

 平和な一日のはずだった。
 街を出て、ラダトーム城へ続く街道をいつものように歩いていた。同じように登城する仲間たちと一緒に。
 ちょっかいを出してくるスライムを護衛を務めるあらくれが撃退したとき、城の物見台から警告音が飛んだ。
 見ると鋭い剣を携えたがいこつが二体、こちらへ向かってくる。
 一行に緊張が走った。
 このあたりには出現しないはずの手強い魔物。――なのに、こちらには戦える者がひとりしかいない。
「逃げろ!」
 急かされ走り出した使用人たちは、森の方から駆けてきたものに阻まれた。
 緑の鱗のドラゴン――なぜか鞍をつけた。
 あらくれとがいこつが剣を交わすなか、もう一体のがいこつが動けずにいるシェリーの腕を強くつかんだ。集団から引き離し、近くへ来たドラゴンのそばへ放り出す。
 剣先を向けて一言、乗れ、と言う。
 身をかがめるドラゴンにまたがる際、シェリーはおびえきった仲間と目が合った。何かを言う間もなく、真下の竜が駆け出す。
 猛るあらくれの声と城門の開く音が背中越しに聞こえた。

 気がつくと目前に森が迫っていた。風に吹かれた梢がざわざわと音を立てる。
 いったいどこまで来たのだろう。
 あたりを見渡しても魔物の軍団はいない。城の近辺でもよく見るスライムやドラキーしかおらず、しかも彼らはドラゴンから逃げていく。城の人間を誘い出し叩きのめす罠というわけではなさそうだ。
 大きな木のそばでドラゴンはついに歩みを止めた。ちらりとこちらを見た後に背中を揺らす。
 降りろということだろう。
 シェリーは久方ぶりに草を踏んで、服の裾についた土埃を払った。
「おお、来たか。ちと遅かったな」
 ぎょっとして顔を上げれば黄金色のローブを身にまとった何者かが木の陰から進み出てきた。顔は頭巾の影になってよく見えない。闇に目だけが浮かんでいるようだ。
 手にした杖を見るに術師の魔物だろうか。
「どなたですか……? ここへ私を呼んだのはあなたですか?」
「自分から名乗るのが礼儀というものだろう」彼は笑った。「と言っても、わたしはおまえの名を知っているがな。シェリー」
「な……」
「まあ待て。順を追って話してやるとも。しかし先は長い。まずはここを発つぞ」
 そう言うと魔物はドラゴンに取り付けてある馬具を外し始めた。鞍や頭絡から解放されたドラゴンはしぶきを払うかのように身震いをして、フンと息をついた。
「ご苦労だったな」
 魔物を一瞥した緑の巨竜はゆっくりと来た道を戻っていく。
 ああそうだ。と、魔物は思い出したようにシェリーの背を指した。
「荷物はしっかりと身につけておけ。結び直すのなら今のうちだぞ」
 シェリーは言われるままに背負っていた包みを解いて固く結び直した。疑問は飲み込む。
「準備できました」
「では行くか」
 魔物が灰色の手を差し出す。
「手をとれ」
「いえ、一人で歩けます」
「そうではない。いいから早くわたしにさわれ」
 限りない抵抗を押さえつけて、シェリーは魔物の手に触れた。言う通りにしなければどうなるか分からない。
「よし」
 魔物は言って、もう一方の手にある杖を掲げた。
「ルーラ!」
 瞬間、ふたりは木々の間を抜け空へ舞い上がった。そのまますごい速さで風を切る。
 叫ばずにはいられなかった。
 これ! うるさい! そんな声が聞こえたが構っていられない。目を閉じても妙な力は自分をどこかへ運んでいく。
 数秒のうちにふたりは石畳に軟着陸した。
「まったく……なんという有り様だ」魔物がシェリーの手を振りほどく。「スライムのほうが行儀がいいぞ」
「まさか……飛ぶなんて……」
 あえぐシェリーは己の心臓を押さえた。刺激過剰で死んでしまう。
 ふと、花の腐ったような臭いが鼻をついた。足元を見れば紫色をした毒の沼地が石畳の際まで迫っている。
「入るなよ。死にたくなければな」
 魔物が言った。
「ここは魔の島。後ろにそびえるは竜王様の城だ」
 シェリーは振り返って威容を仰ぎ見た。ラダトームから見えていた竜王の城。その入り口に立っている。
「自己紹介がまだだったな。……わたしはだいまどう。竜王様の側近をしている者だ」
「…………」
「そして、シェリー。おまえの主は今日より竜王様となった」