「それは……どういうことですか」
 ようやく言葉が形になった。
「城の料理番を頼みたいのだよ。主に竜王様の食事を作ってもらいたい。時には我ら臣下の分も頼む」
「どうして私なのですか? 料理ならコック長のほうが上手です」
「想定通りの質問だ」細長い目が弧を描いた。「歩きながら話すとしよう」
 彼に続いて城に入ると、ひやりとした空気が肌に触れた。はりつめた雰囲気は魔物が発する敵意によるものか。同じ城でもラダトームとはずいぶん違う。
 だいまどうは衣を引きずりながら赤い絨毯の上を進んでいく。
「わたしはここしばらく水晶玉を通して厨房を覗いていた。むろん彼の者を拐うことも考えたぞ。しかし、万一にも反逆を企てられては嫌なのでな」
 開いた手のひらに生まれた炎が輪を描いて踊る。
「反逆によって我らが痛手を被ると言いたいのではない。ただの人間ひとりの力など毛ほども気にならん」
 ぐっと握りしめた拳のなかに炎は消えた。
「ただ、煩わしいのだよ。そやつを捨ててまた別の者を引き連れるのは」
「……私があなた方に逆らわないと見込んでのことですか」
「さよう。おまえのような者が一人いればよい。調理ができ、小心で手向かう力を持たぬ人間がな」
「そんな、ひどい……」
 必要としておいて見下すとはあんまりだ。
「おまえは選ばれたのだ。名誉なことぞ」
 全然嬉しくないなどとは口が裂けても言えない。
 玉座の裏の絨毯をだいまどうはめくった。杖に明かりをともして地下へと続く階段を降りていく。
 土壁の暗さにシェリーはたじろぎ立ち止まった。
「どうした?」
 行きたくない。ここを降りれば自分は本当に闇に捕らわれてしまう気がする。
「……この私に務まるでしょうか」
 かろうじてそんな言葉が口からもれた。
「務まるとも。わたしの目に狂いはない」
 励ましているのか、暗闇に浮かぶ頭巾が真摯に頷く。
「さあ、行くぞ」
「……はい」
 シェリーは命惜しさに一歩を踏み出した。

「この城は全8階。先程通った1階は、まあ、足止めの仕掛けのようなものだ。地下1階から6階は洞窟で、大勢の臣下が住んでいる。地下7階は島の深部、竜王様の居城でな。おまえの仕事場もそこにある」
 辿ってきた道順を記憶していたシェリーはやや遅れて返事をした。
「道を覚えているのか?」
 不意に問われ、言葉に詰まった。
「熱心なのはよいが、逃げることは叶わんぞ。大陸にかかる橋はないし、見張りはごまんといるからな」
 無駄な希望は持たぬことだ。事も無げにだいまどうが告げる。シェリーの儚い野望は早々に打ち砕かれてしまった。
「逃げられないのですね」思わず声が細くなる。
「なにを残念がる必要がある」しわがれた声が笑う。「これまでと仕事はさして変わらぬ。生存に必要なものはもちろん与える。少しの余暇もな」
「そうなのですか? 私はてっきり、ぼろぼろになるまでこき使われるのかと……」
「おまえは我らをなんだと思っているのだ」
 あからさまなため息が聞こえた。
「労務管理もわたしの仕事の内。なんでも相談せよ」
「ありがとうございます」
 先を行く背中が良い上司のように見えてシェリーは困惑した。配慮をしてくれるのは方便なのだろうか。わからない。何せこれまで生きてきて魔物と話したことなどなかった。
 彼らはいつも突然やって来て、大事なものを奪っていく。そう聞かされてきたし、そう感じていた。
 父は……母は元気だろうか。シェリーは故郷を思った。

 眠る青いドラゴンの脇をすり抜け、ふたりは豪奢な扉の前へ来た。
「さあ、いよいよ城の中枢だ。ここからは道を覚えるようにな」
 扉を引くと深紅の床が目に入った。洞窟からの空気に触れた燭台のろうそくが静かに揺らめく。
 竜の喉元にいるかのような錯覚を覚えた。まるで異界だ。息をするのをはばかるほど深い闇の気配に満ちている。
 シェリーの手はしっとりと汗ばんできた。
 もし勇者がいるのなら、ここはきっと旅の終着点となるにふさわしい。地の底で脈動するマグマのような凄みを薄らと感じる。
 恐縮するシェリーをよそに、だいまどうは確かな足取りで進んでいく。
 やがて彼の開けた部屋には白い布のかかった丸テーブルが並んでいた。かなり広い。
「ここが食堂。隣が調理場だ。しばらくそこで待っていろ。わたしは竜王様にご報告申し上げてくる」
「わかりました」
 そっと押し開いた扉の先にはなじみのある光景が広がっていた。大きな食器棚と石のかまど。作業台と使用人の食卓を兼ねる木製の長テーブルには選別を待つ木の実が転がっている。
 ここなら落ち着く。シェリーはほっと息をついた。
 と、何やら奥の方から音がする。貯蔵庫だろうかと覗きに行けば、
「わああ!?」
「うわッ!?」
 海色の鎧とかち合った。魔物は危うく落としそうになったモモガキの実を抱え直した。
「人間……てことは、あなたが新入りさんですか?」
「あ……はい。シェリーと申します。料理番を仰せつかりました」
「ヨカッター、女の子なんだ。どんな人間が来るかと思って、ドキドキしてたよ」
 抱えた実をテーブルに運び、大柄な鎧は臙脂色の手を差し出す。
「俺は料理番をしていたよろいのきしです。ヨロシク」
「よろしくお願いします。前任の方なのですね」
「そう。ここ一年くらいは俺が作っていたんだけど、ちょっと、ミスをしちゃって」
 ハハハと飾りのついた兜を照れた風に掻く。
「まあ、どうぞ座って。モモガキでも食べてください」
 椅子まで引いてくれる騎士にシェリーは軽く感動した。魔物にもこのような優しい者がいるのだ。
「アレ! ど……どこか痛みますか?」
 言われて初めて涙がこぼれていたことに気づいた。
「いえ、なんでもありません。少し……ホッとしてしまって……」
「さぞ驚かれたことでしょう。今日は、ゆっくりしてください。仕事のことは明日から考えればいいです」
 彼の持ってきた水を口に含んで、シェリーは頷いた。
 よろいのきしはシェリーが仕事に慣れるまで補助と監督をするという。さらにはシェリーの世話も頼まれているそうで、後ほど寝室となる小部屋まで案内してくれるという。

 モモガキをひとつ食べ終えたところで、だいまどうが戻ってきた。
「待たせたな、シェリー。竜王様にご挨拶しに行くぞ」
「は……え?」
「何をボサッとしている。さっさと来んか」
 騎士に目をやれば、頑張ってとばかりに握りこぶしをひとつ。
 そうだ。あまりのことに考えるのをやめていたが、自分はこれから竜王に仕えるのだった。悪の権化であるその人に。