通路を進むにつれ空気が重くなるのを感じる。
 数百年前に突如として現れた竜王は、ラダトームの城から光の玉を奪い、アレフガルドを混乱に陥れた。そう聞いている。
 自分が物心ついた時には既に冬の時代で、町は片手で足りる数しか残っていなかった。人間は魔物の隙間で息を潜めて暮らしている。
 唯一の希望といえば再来が期待されている伝説の勇者なのだが、王の年・王の月・王の日に生まれたとされる彼はどこかで無事に成長しているらしいと、願望とも真実ともつかぬ噂が流れるだけで、名乗りをあげる者は現れなかった。
 物思いに沈んでいたシェリーは途切れた通路の先に陽光が射しているのを見て、目を見開いた。
「明るい! 地下なのに」
「うん。ここは中庭。吹き抜けの岩盤から日が射すのだ。粋だろう」
 砂州に茂る下草が柔らかな光を浴びている。シェリーは少し安堵した。
 しかし、点在する毒の沼がこの先にいる主を思い出させる。
 中庭を過ぎ、だいまどうは扉の前で声を張った。
「陛下、使用人を連れて参りました」
 入れ。と響いた声にシェリーは身を震わせた。だいまどうが静々と進み出る。
 先程の明るさが嘘のように暗い。赤く沈んだ部屋の奥には竜を象った玉座があり、そこに黒い角をもつ魔物が深く腰かけている。背丈は人間の大人ほどだろうか。
 さして恐ろしげな見た目でもないのにシェリーの足は水中を進むように重かった。
「こちらが本日攫って参りましたラダトームのメイドでございます」だいまどうが言った。「さあ、竜王様にご挨拶を」
 金色の目がこちらを向いたとたん、シェリーは息がつまった。用意してきた言葉が出てこない。
 黙っているわけにはいかない。
 そう思うのに、肺は浅い呼吸を繰り返すばかりで言うことをきかない。
「早くせんか」だいまどうがささやいてシェリーを小突く。
「よい」
 ぽつりと竜王が言った。紫のローブが衣擦れの音をたてる。
「そなた、名はなんと申す」
「シェリー……と、申します」
「そうか。シェリー、楽にせよ。取って食うつもりはない」
 ようやく呼吸を許されたような気がして、シェリーは軽く咳き込んだ。
「城へ呼んだ理由はそやつから聞いておろう。わしらにはそなたが必要なのだ」
 竜王は静かに言葉を続ける。
「そなたが務めを果たしておる限り、身の安全を保障しよう。だが、腑抜けたままでいるのなら…………わかるな。代わりはいくらでもいるというわけだ」
「……はい。誠心誠意、尽くして参ります」
「頼んだぞ」
 横で聞いていた黄金の頭巾が満足げに頷く。
「では我々はこれで――」
「あの、ひとつ伺ってもよろしいですか。竜王様」
 シェリーが口を挟んだ。
「なんだ?」
「何か、お嫌いな食べ物はございますか」
 問われた竜王は鋭い視線を横へ滑らせた。
「……特にない。なんでも食べるのが健康の秘訣じゃ」
「かしこまりました。食材は限定しないようにいたします」
 他に質問は? だいまどうが目で尋ねる。シェリーは首を振った。
「――では、失礼いたします」
 ふたりは一礼し王の間を後にした。
 身に迫る気迫からは解放されたものの、シェリーの体には別の危機が訪れていた。
 再び陽に照らされただいまどうから笑いが漏れる。
「よく腰を抜かさなかったな。偉いぞ。ただの人間にしては上出来だ」
 シェリーは口ごもった。
「……申し訳ありませんが、お手洗いに行かせてください……」

 調理場に戻るとふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。
「あ、いい香り……」
「おかえりなさい。どうでした?」
「とても緊張しました」
 笑って騎士の手元を覗く。混ぜているのは粗く刻まれたモモガキの果肉だ。とろみをおびた汁から湯気が立ち上っている。
 ジャムを作っているんですと彼は言った。「竜王様の朝食にお出ししようと思って」
 シェリーは軽い衝撃に打たれた。
「竜王様もジャムを召し上がるんですね」
「うん。朝はパンだからね。ジャムを添えることが多いです」
「なんだか意外です。朝から子羊一頭くらい食べるのかと……」
「どんなイメージですか、それ」
 騎士はからからと笑った。
「そんなに大食ではないですよ。あのお方は。楽しみのために少量を召し上がるだけです」
「そうなのですね」
 となると、食事の娯楽性にもしっかり配慮しなければならない。城で多様な味付けや繊細な盛り付けを習っておいてよかったとシェリーは思った。
「今夜はどんなメニューですか?」
「エート、サラダに、鶏胸肉のグリルの予定です」
 漆喰の壁を仰いだ騎士は答えた。
「私は何をやりましょうか」
「え? いいですよ。明日からでも」
「いえ。よろいのきしさんと話していたら元気が出てきたので」シェリーの口元が緩んだ。「指導してくださるあなたがお優しい方でよかったです」
「そんな……優しいだなんて」
 手の止まった騎士は鍋の煮立つ音で思い出したように撹拌を再開した。
 シェリーはモモガキの香気を吸い込み、深く息をついた。
(早く竜王様にも慣れないとな)
 でなければ仕事にならない。というより、萎縮せずにきちんと動かなければ命が危ない。
 でも、嫌いな食べ物を尋ねた際の、あの言葉――あれは、近所に住む健康自慢の老人に似ていた。
 意外と普通の人なのかもしれない。
 そう思ったら向かい合えそうな気がしてきた。できるだけ親しみを持つように努めよう。シェリーは密かに決意した。