朝食を持ってきたシェリーは寝室の扉の前で立ち尽くした。ノックをして声をかけたのに、返事がない。
 そろそろと扉を開けると、まだ寝ている竜王が目に入った。
「おはようございます。竜王様」
 思わず小声で挨拶をする。竜王は目を開けて、もう朝かと呟いた。眉間にしわを寄せて何度か咳をする。
「体調が優れないのですか?」
「うむ。ややだるい」
 失礼いたしますと断って、シェリーは竜王の額に触れた。どうやら熱があるようだ。
「風邪でしょうか。朝食はどういたしますか?」
「何か果物が食べたい」
「かしこまりました。すぐお持ちしますね」
 シェリーは調理場に戻ってりんごを剥き、ぶどうと共に竜王のもとへ届けた。
 城の見張りに立っていたよろいのきしに聞いて、氷嚢と吸い飲みを探し出し、それも持って行った。
「冷たくて気持ちがいい」
 氷嚢を額にのせた竜王がぽつりと言う。
「それはよかったです。頃合いを見て交換に来ますね」
 退室したシェリーは調理場のテーブルで竜王の分だったトーストを食べた。モモガキのジャムは安定しておいしい。
(まさか、陛下が寝込むなんて)
 この城に来てからずっと元気な姿しか見ていなかったので、なんだか意外だ。よろいのきし曰く滅多にないことだそうだが、竜族の王であっても病には勝てないらしい。
 何か、免疫力を弱めるようなストレスがあったのだろうか。
 そこまで考えて、はたと思い当たった。この前のイカダの一件だろうか?
 シェリーが必要なのだと竜王は言った。あの告白に応じる言葉をまだ用意できていない。できるのはこの城での奉仕を続けることだが、いつか帰郷したいシェリーはこの地に骨を埋める覚悟ができずにいた。
「どうしたものかな……」
 シェリーは呟いて首を振った。とりあえず、仕事をしよう。

 昼時。おかゆを入れた深めの皿を持って、シェリーは竜王に声をかけた。
「おかゆを作ったのですが、食べられそうですか?」
「うむ。いただくとしよう」
 ゆっくりと席についた竜王は料理を口に運んだ。
「五臓六腑にしみわたるとはこのことだな」
 そう言ってむせる竜王の背中をシェリーはさすった。
「優しいのだな。魔物相手にも」
「心配するのは当然のことです。相手が人であろうと魔物であろうと、関係ありません」
 言ってから、自分の言葉に疑念がわいた。本当にそうだろうか? 以前の自分はそう言っただろうか?
 どうやら、この城に来て価値観が変わったようだ。見た目の差異はあっても人間と変わらず生活している魔物たちに触れて、シェリーは人間と魔物はわかりあえると確信したのだった。
 食事を終えた竜王はベッドに戻り、シェリーは食器を下げた。
 城の掃除をしたあと読書をして過ごし、そろそろ夕食の支度をするかという時間になった。
 調理場でひとつ伸びをしているところに竜王が入ってきた。
「お加減はいかがでしょうか?」
「だいぶ楽になった。そなたの料理のおかげじゃな」
 シェリーが差し出した水を飲んで、竜王は一息ついた。
「やっと食欲が出てきてな。何か食べたくなった」
「それは何よりです。今からお作りしますね」
 簡単なものでよいぞ、と付け加える竜王を背にシェリーは食パンを取り出した。ふたり分のパンを切り取るとトマトやレタス、ハム、マヨネーズを挟んで手で押さえてなじませた。食べやすい大きさに切り、皿に盛る。
「どうぞ。本当に簡単なものですが」
 竜王は礼を言ってサンドイッチを口に含んだ。
「うまいぞ。このマヨネーズはからし入りか? 食が進むな」
「はい。おいしいですよね」
 シェリーもサンドイッチを咀嚼して答えた。時々こうして竜王と同じものを食べるのが楽しいのだった。
 料理をすべて胃に収めると竜王は皿をシンクに下げた。シェリー、と名前を呼ぶ。
「今宵、わしの寝室に来てくれるか」
 シェリーは動きを止めた。まさか、あれか。知識を仕入れたきりついぞ縁のなかった――仕える者に夜伽を頼むという。
 それとも、何か他の用事だろうか。本人に訊けば早いのだが、それができずにシェリーは頷いた。
「承知いたしました」
「では、後でな」
 調理場を出て行く竜王の背中を複雑な気持ちで見送った。

 万が一ということもあるから、シェリーは入浴してから寝室へ赴いた。竜王はベッドで横になっていた。
「陛下、参りました」
 小さく声をかけると竜王はこちらを向いた。
「手を握ってくれぬか」
「はい」
 シェリーは椅子を引っ張ってきてベッドの脇に腰掛けた。差し出された竜王の手を両手で包みこむ。
「温かいな。母親がいたらこんな感じなのかもしれぬ」
 竜王の声は穏やかで耳に心地よかった。
「わしはいつも戦いの中に身を置いていたから、このような温もりがあるのを知らなかった。だがシェリー、そなたが教えてくれたのだ。だから……」
 シェリーの手をぎゅっと握って、竜王は苦しそうな顔をした。
「どこにも行かないでくれ」
「私はここにおりますよ。竜王様」
 竜王はしばらく黙ってから、本心はどうなのだと言った。
「ラダトームに帰りたいですが、ここでの生活も悪くないと思っています」
「そうか」
 握った手をぐっと引き寄せられ、シェリーはベッドに身を乗り出す形になった。
 竜王は目を伏せてシェリーの手の甲にキスをした。とたんにシェリーは全身が熱くなるかのような錯覚に陥った。
「りゅ、竜王様……」
 ごく控えめに名を呼べば、金色の瞳がいたずらっぽく光った。反応を見て楽しんでいるのかもしれない。
「あの、恥ずかしいです……」
 もしやこれ以上の行為に及ぶのだろうかとドキドキしていると、竜王は手を離した。
「行ってよいぞ。付き合わせてすまなかったな」
「いえ……。おやすみなさい」
 寝室の扉を閉めて、シェリーは顔を覆った。あんな愛情表現をされるなんて思ってもみなかった。
 こんな気持ちで眠れるだろうかと疑問に思いながら、自室へと歩き出した。