今日は朝から騒がしかった。魔物たちが頻繁に廊下を行き来している。何事だろうか。
(これが終わったら様子を見に行ってみよう)
 朝食の皿を洗い終わり、拭きながらシェリーは思った。
 すると、よろいのきしが慌てた様子で調理場に入ってきた。
「おはよう。シェリーさん」
「おはようございます。何かあったのですか?」
「うん。ついに勇者がこの城に来たんだ。今は洞窟を進んでる最中だって聞いてる」
「それは一大事ですね。皆さんが慌てていたわけがわかりました」
「俺もこれから迎え討ちに行ってくるよ」
 よろいのきしはぐっと握りこぶしを作った。
「危ないからシェリーさんは隠れてたほうがいいよ。それじゃ」
「お気をつけて」
 鎧をガシャガシャと鳴らして騎士は出て行った。シェリーはなんだか落ち着かなくなってきた。けれども非戦闘員である自分にできることは、身を隠して日常を送ることだけだった。
 そんなわけでシェリーは食品庫の点検にとりかかった。期限を確認すると共に、何がどこにあるかの把握をした。自然と献立を考える。
 昼食はきのこの豆乳スープにしよう。
 シェリーはひとりで頷いて、きのこを調理台に置いておいた。作るにはまだ早いので、城内の掃除に向かう。隠れていたほうがいいと言われたが、いつもの日課をこなすほうが落ち着くのだ。
 勇者という来客があるから、掃除には力が入った。誰が来ても恥ずかしくないほど綺麗な城だ。三時間ほど経った頃、シェリーは汗をぬぐった。そろそろ終わりにしよう。
 調理場で手を洗い、しいたけを薄切りにする。しめじとまいたけは石づきを切り落として、手でほぐした。豆乳と水を火にかけたところに、きのこを投入する。コンソメと塩を加えて味を調えたら完成だ。
 火を消して竜王を呼びに行こうとした時、ちょうど調理場の扉が開いた。
「きゃっ」
「うわっ!?」
 青い鎧を身につけた青年は、驚かせてすまないと頭を下げた。
「まさか人間がいるとは思わなかった。俺はアレフ。竜王を討伐しに来たんだ。君はここで何を?」
「ラダトームから攫われてきて料理番をしています」
「誘拐か。大変だったな」
 アレフの声は同情を含んで優しかった。
「ここの地図はわかるかい? よければ案内してほしいんだが」
「そんなに難しくないですよ。ここを出て時計回りに進めば王の間です」
「そうか。ありがとう」
 礼を言われてハッとした。勇者を招き入れるような真似をしてしまった。これ以上彼に優しくしたら竜王に合わせる顔がなくなってしまう。
 シェリーは失礼しますと断って調理場を出た。走って王の間へ急ぐ。
 ここまで勇者が来たということは、よろいのきしは倒されてしまったのだろう。彼だけでなく多くの魔物が――よくしてくれた皆が。
 でも、魔物たちが優しかったのは自分が使用人だったからで、ただの人間だったら、あのよろいのきしでさえも牙をむいたかもしれない。
(けれど……私はやっぱり、人と魔物の共存を信じたかった)
 勇者の出現に葛藤を抱える日が来るなんて、とシェリーは唇を噛んだ。
 竜王は玉座にゆったりと腰かけていた。息を切らしたシェリーを見て、「そんなに慌ててどうした?」と声をかける。
「竜王様……アレフという勇者が来ました」
「うむ。そのようだ」
「それと、昼食のご用意ができました」
「そうか。今すぐ食べたいところじゃが、勇者が来るのでな。後にしよう」
「かしこまりました」シェリーは固く手を握って、おもむろに口を開いた。「竜王様、逃げませんか?」
 竜王は目を見開いてパチパチと瞬きした。意外な言葉だったらしい。
「いや、王たるもの逃げるわけにはいかぬ」
「では、ひかりのたまを渡しましょう」
「それはできぬ。あれはわしら竜族のものじゃ」
「では……なんとか話し合いで解決できないでしょうか?」
「シェリー、心配せずともそのつもりじゃ。戦うのは最後の手段じゃな」
「それなら良いのですが……」
 シェリーはうつむいた。竜王は立ち上がって、シェリーの頭をポンポンと叩いた。
「心配ないぞ。わしは負けるつもりはないからな」
 そう言ってニヤリと笑う。不安は拭いきれないが、竜王を信じようとシェリーは思った。彼の戦う姿は見たことがないものの、たまに見せたベギラマや真の姿は素人目にも強そうだったのだから。
 そして、タイミングを見計らったかのようにアレフが歩いてきた。赤い絨毯の上で立ち止まる。
「よくぞ来たアレフよ! わしが王の中の王、竜王である。わしは待っておった。そなたのような若者が現れることを」
 竜王は言葉を切って口元に笑みを浮かべた。
「もし、わしの味方になれば世界の半分をアレフにやろう。どうじゃ? わしの味方になるか?」
「ずいぶん気前がいいな。だが誘いには乗れない」
「どうした? 世界の半分を欲しくはないのか? 悪い話ではあるまい」
「断る。おまえを倒すとラダトーム王に約束したんだ」
「では、どうしてもこのわしを倒すというのだな! おろか者め! 思い知るがよいっ!」
 竜王の怒声にアレフが剣を構えた。
「シェリー、下がっておれ! 激しい戦いになるからな、中庭に出ているといい」
 シェリーは言われた通りに中庭に向かった。背後からアレフの威勢のいい声がして、剣と杖のぶつかる音が響いた。戦いが始まってしまった。
 草むらにたどり着くと、シェリーは座って手を組んだ。目を閉じて、ふたりに大怪我がないように祈る。どちらに勝ってほしいわけでもなかった。
 しばらくすると剣戟の音がやみ、代わりに炎が放射されるような音がするようになった。竜王が真の姿を現したのだろうか。それだけ追い詰められているのだ、とシェリーは胸が締めつけられた。
 やはり自分にとって竜王は大切な人だ。気づくのが遅すぎたかもしれない。戦いを止めに入りたいくらいだが、止めたところで、どちらかが倒れるまで戦いは終わらないだろう。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう、とシェリーは泣きそうな気持ちになった。
(願わくば竜王様が無事に昼食を摂れますように)
 それだけを願って戦いの音に耳を澄ませた。どれだけの時間が経ったかわからないが、やがて音はやみ、中庭に吹き渡る風の音だけがするようになった。
 王の間から出てきたのは、アレフだった。シェリーはすぐさまアレフの横を駆け抜け、倒れている紫の竜に近寄った。膝をついて大きな顔を撫でる。
「竜王様……」
 体についた傷が戦いの激しさを物語っていた。シェリーは目が熱くなるのを感じた。涙があふれ、竜王の顔に落ちた。
「お慕いしていました。ずっとおそばにいたかったです」
 顔を包み込むようにそっと抱きしめる。まだ温かい体はピクリとも動かない。シェリーは竜王の亡骸を前にひとしきり泣いた。
 気づけば背後にアレフが来ていた。
「君、シェリーといったっけ。一緒に帰るかい?」
 返事をする気が起きずに、シェリーは黙って涙をぬぐった。
「君にも家族がいるだろう」
「……この城の皆も、家族でした」
「そうか。扱いは悪くなかったんだな」
 アレフは静かに頷いて、「外でキメラのつばさを使うから、準備ができたら来てくれ」と言って歩いていった。
 シェリーは改めて竜王に向き直った。名残惜しいので体を撫でていると、首のあたりで手が止まった。弱々しいが、脈拍がある。まさかと思い鼻に手を近づければ、こちらも僅かだが呼吸していた。
 竜王は、生きていた。シェリーは胸に空いた穴が塞がる心地がした。
 けれども、まだ命があると勇者に知られたらまずいことになるかもしれない。ここは一旦退こう、とシェリーは決意した。
「竜王様すみません。また……必ず参りますから」
 まだ意識のない竜王に告げて、シェリーは王の間を去った。