01
1989年。ジェニーはタイピングの手を止め、かすかに聞こえてくる音楽に耳を傾けていた。今流れているのはジャーニーのセパレート・ウェイズだろう。哀愁を帯びたメロディが耳に心地よい。
音楽はジェニーが流しているものではない。また、壁の向こうで家族や隣人が流しているものでもなかった。
家のはす向かいに建っているゲームセンター。そのジュークボックスからである。
よって営業中は絶え間なく低音が響いているのだが、ジェニーはそれが嫌いではない。むしろ、ゲームセンターから徒歩1分という立地条件は自慢だった。
しかも、そこらのゲームセンターとは違い、ゲーム界のカリスマであるフリン氏が経営しているのだ。彼がまだ無名だった頃からミレン家はそこに住んでおり、ジェニーはおこづかいをもらうたびに店へ通ったものだった。
ふいに音楽が止む。終業時間である。
しばらくすると店から出た若者たちの声で賑わい、やがてそれも聞こえなくなった。
ジェニーはひとつ伸びをすると、窓際のベッドに横たわった。
ここからはゲームセンターがよく見える。店名のネオンは消え、街灯だけが通りを橙色に照らしていた。
「頭痛い……」
パソコンを長時間使用したためか、頭が不快な重さに包まれている。やりすぎた後悔とともに目を閉じたとき、特徴的なバイクの音が近づいてきた。
目を開くと、愛車を停め、ゲームセンターに入っていく人影が見えた。遠くからでもわかる。フリンだ。
(今日もか)
このところ、彼は店に通うのが習慣になっているようだ。経営者であるから当然といえば当然であるが、閉店後に訪れることがジェニーには不思議だった。しかも、たいてい20分ほどで用事が終わるらしい。
新たなゲームの開発か、機器の修理か。それともゲームの腕前を落とさないよう、独り特訓しているのだろうか。
ジェニーは前にフリンがプレイしているのを見たことがある。ジョイスティックをしなやかに操りハイスコアを叩き出す彼の周りには、いつも人だかりができていた。
しかし、エンコム社のCEOになってからは、どこか遠い存在になってしまったようで寂しい。
(ま、期待してるんだけどね)
いつかの演説でフリンが言った、「デジタル・フロンティア」。ジェニーはそれを心待ちにしている。
彼なら実現できる。なぜか、そう思えるのである。
その夜、いつものように店を後にするフリンを見ることはなかった。
*
「ジェニー、見て」
母親の緊迫した声が聞こえた。
夜のニュースに目をやると、フリンの顔が映し出されていた。「ケヴィン・フリン氏が行方不明」――ジェニーは菓子をあさるのも忘れて、テレビに見入った。
彼がいなくなるなんて、そんなこと……あるのだろうか。
「昨日フリンさん見たよ」
母親が目を丸くしてジェニーを見た。
「どこで?」
「そこのゲームセンター。閉店したあと入って行った」
「それ、エンコムに言ったほうがいいんじゃない?」
「そう? もう店は調べたでしょ」
「こういう時はささいな情報でも提供したほうがいいわ」
と、言うが早いか、受話器を取りダイヤルし始める。
ジェニーはあわてて叫んだ。
「ちょっと、心の準備がまだ! 明日自分でかけるから!」
しぶしぶ席に戻る母親に、ほっと胸をなで下ろす。
「早いほうがいいわよ」
「へいへい」
彼の助けになりたいのはやまやまだが、自分の持つ情報が有益なものかは怪しかった。単に、彼が店を出たことに気づかなかっただけかもしれない。そして、そのあと失踪した――そのほうがありうる。
しかし、昨日に限って気づかなかったことが気にかかる。いつもなら、バイクの音で彼を意識するのだが。
もし、自分の見たことが正しければ――つまり、フリンが店に入り出てこなかったとすれば――彼はまだ、あの中にいる。
(人目につかない所で身動きできなくなってる、とか?)
憶測に過ぎないが、ジェニーの直感はまあまあ当たるのだ。
電話をしようかしばらく考え、席を立った。思い立ったが吉日だ。
「部屋行くわ」
「またパソコン?」
「まあ、そんなとこ」
「ほどほどにしておきなさいよ。視力下がったんだから」
曖昧な返事をして2階に上がる。ウエストポーチをひっつかむと、外出に必要な物を詰め込んだ。
ゲームセンターの営業時間が30分を切ったところで、ジェニーは部屋を出た。運良く、リビングには誰もいない。門限はとうに過ぎているのだ。
「ちょっと出かけてくる」
誰に言うでもなく呟いて、家を飛び出した。
書き置きは残さなかった。小一時間で帰ってくるのだから。