08
艦橋に入ってきたジェニーはあたりを見回した。「あれ? クルーは?」
「エンド・オブ・ラインだ」ジャービスが言う。
「へえー……」
「言っておくが、おまえの想像しているような用事ではないぞ」
「なんだ。飲みに行ったのかと思った」
ジェニーは小さく笑った。
「じゃあ、ジャービスでいいや。ちょっと相談なんだけども……四輪の乗り物ってないのかな?」
「理由を訊こう」
「この前リンズラーとライト・サイクルの練習をしたけど、二輪は慣れなくて。曲がるときとか不安定なのが怖いんだよね」
「おまえが転ぼうと知ったことか」
「冷た……そんなんじゃ女の人にもてないよ」
「ほかの女性には優しいぞ、私は」
ジャービスはにべもなく言い放った。
「はっ、ジャービスって私にだけ特別冷たいよね。なんで?」
「大した能力もないのに重要なポストに就いているからだ」
「人徳かな?」
「賄賂でも贈ったのだろう」
「は? あんたじゃあるまいし」
「そうでなければ色仕掛けか? ん?」
「毛根死滅しろ」
ジェニーは透明なバイザーをかち割りたい衝動に駆られた。
そのとき、クルーが艦橋に帰ってきた。
「これはお見苦しいところを」
ジャービスが一礼して脇に下がる。
「なぜだろうな」
先の話を聞いていたらしいクルーがジェニーの周りをゆっくりと歩く。
「……笑顔、だな」
そう言って微笑む。ジャービスは衝撃を受けたような顔をしてうなだれた。
「愛想が足りないのを反省いたします」
「私ってそんなに笑ってるかなぁ?」
照れくさくなって、ジェニーは手で頬を包んだ。
「自分では気づかないものだな。おまえの笑顔を見ると……わたしは胸の奥が温まる心地がする」
「そうなの? 私はクルーの笑顔も好きだよ」
口が弧を描いているだけで目が笑っていない笑顔もまた、底冷えがして好きなのだが、これは言わないでおく。
クルーはジェニーの頭をぽんぽんと叩いた。かつてない近さで目が合い、ジェニーはドキドキしてきた。
この高鳴りは尊敬の気持ちだな、きっと。
そう結論づけてクルーの微笑を見つめた。
*
いつもお世話になっているから、とジェニーはクルーとリンズラーを招いた食事会を企画した。
キッチンに広げた食材を前にレシピを確認しているとき、家のチャイムが鳴った。思考を中断してドアを開ければ、黒とオレンジのコスチュームに身を包んだリンズラーが立っていた。
「早いねリンズラー。私まだ準備中なんだ」
「手伝おうと思って」
「そうなの? 助かるよ。じゃあ入って」
ジェニーが言うとリンズラーは後ろ手に隠していた物を見せた。赤いチューリップの花束だった。
「わぁ、かわいいね! ありがとう」
水を入れた花瓶を持ってきて、それを飾った。テーブルの飾り付けのことはすっかり失念していたが、これでちょうどよかったかもしれない。ジェニーは満足げに微笑んだ。
予備のエプロンをリンズラーに貸し、ふたりはキッチンに立った。本日のメニューは三種の海苔巻きだ。携帯端末でレシピを読んだリンズラーが合点したように頷いた。
「じゃあ私は玉子焼きを作るね。リンズラーは酢飯をお願いしていい?」
少し経ってから、各々の仕事を終えて具材が揃った。あとは巻くだけだ。
「さて……ここからが本番だよね」
緊張するジェニーをよそにリンズラーが静かに進み出る。
「巻いてくれるの?」
訊けばリンズラーはひとつ頷いてみせた。ジェニーは応援に徹することにした。
リンズラーは巻きすを広げ、海苔を敷いた。その上に酢飯をまんべんなく載せる。次にツナそぼろときゅうり、玉子焼きを置いて巻いた。思いきりのいい巻きっぷりにジェニーは感嘆の声をあげた。
最後に食べやすい大きさに切ると美しい断面が現れた。
「さすがリンズラー! 器用だねぇ」
「ジェニーのためなら、このくらいなんでもない」
落ち着いた声で呟くリンズラー。彼にできないことはないのではないかと思うくらい有能である。
リンズラーはジェニーの声援を受けて残りのえびアボカド巻きとまぐろの太巻きをも巻いてみせた。
と、その時再びチャイムが鳴った。寿司職人と化しているリンズラーをおいて、ジェニーは玄関に急いだ。
訪ねてきたのはなんとジャービスだった。
「なんか用?」
と、思わずぶっきらぼうに訊く。
「このたびクルー様のために笑顔を身につけたのだが……自分ではよくわからなくてな。おまえに評価してもらいたい」
「明日は雹でも降るのかな」
「明日は一日曇りだ」
「そう」
ジェニーは少しばかり疲れを感じたものの、仲が悪くても頼んできたジャービスの気持ちを汲んだ。
「まあいいや。入ってよ」
「これをおまえに」
そう言ってジャービスがぶどうを差し出す。
「気が利くじゃない」
「私は有能にして完璧な右腕だからな。当然のことだ」
「そうだ、このあと食事会があるんたけど、ジャービスも食べていく?」
「おまえの料理を食べろと?」
「無理にとは言わないけど? クルーにおべっか使えばいいんじゃない」
「クルー様が来るのか。それを早く言え」
ジャービスはずかずかと上がりこんできた。
「じゃあ……その笑顔ってやつを見せてみてよ」
ジェニーの言葉にジャービスは笑った。ニヤリという感じだった。
「ニコッて感じにできないの?」
呆れたジェニーが言えば、ジャービスは表情を引き締めて、もう一度笑った。ニタリという感じだった。
「うーん……」ジェニーは閉口した。「無理に歯を見せないでさ、微笑むだけのアルカイックスマイルでいいんじゃない」
「そうか。参考になる」
ジャービスは何かを熱心に携帯端末に入力している。その上昇志向は称賛に値するものの、いかんせん野心や下心といったものが顔に出てしまうのだった。
そうこうしているうちに約束の時間の5分前になり、チャイムが鳴った。
「クルー、いらっしゃい」
「お招きにあずかり感謝する」
愛想よく微笑んだクルーはピンクのガーベラの花束を差し出した。
「向こうでは好いた女性に花を贈るのだろう?」
「そ、そうだね。ありがとう。飾るね」
突然の恋人のシミュレーションにジェニーの平常心は乱れた。何らかのメッセージが込められていそうだが、とりあえずは友好の証として受け取っておく。
部屋に上がったクルーは、すでに飾ってあったチューリップを一瞥して「これは?」と尋ねた。
「リンズラーが持ってきてくれたんだ」
ジェニーが言えば、クルーとリンズラーはお互いを見やった。仲のいいことだ。ジェニーは食卓の椅子を引いた。
四人の視線はテーブルの中央に置かれた食べ物に集中した。
「なんだこれは? カーボンか?」とクルー。
「知らない? 巻き寿司にして正解だったな。黒いのは海苔っていうんだよ」
ジェニーは取り皿を配った。クルーとジャービスはそれに海苔巻きを載せると、醤油をつけてそろそろと口に運んだ。
「……美味だ」
ぽつりとこぼすクルー。ジャービスは言葉を失っている。ジェニーもひとつ食べると思わず微笑んだ。
「美味しくできてよかった!」
功労者であるリンズラーに向くと彼は無言でこちらの様子をうかがっている。そういえばバイザーが取れないのだった、と思い出したジェニーはクルーに相談した。
「仕方がないな。ジェニーの頼みとあっては」
クルーはリンズラーのディスクに何かを入力すると、自分の席に戻った。
するとリンズラーのバイザーが部分的に折り畳まれ、口元が露わになった。すぐに海苔巻きをひとつ咀嚼する。
「よかったね、リンズラー」
ジェニーとリンズラーは頷き合った。
四人は食後のデザートにジャービスの手土産のぶどうを食べた。
ジェニーはそろそろ胸にしまっていた気持ちを打ち明けようと決心した。
「クルー。私がグリッドに閉じ込められたとき、見捨てないでくれてありがとう」
「わたしはおまえを裏切らない。だから……」クルーは目を伏せた。「おまえも、わたしを裏切らないでいてくれるな」
「うん。ずっと味方だよ」
ジェニーは心を込めて答えた。
「リンズラーとジャービスも、いろいろと良くしてくれてありがとう」
「仕事だからな」
愛想笑いを忘れたジャービスが言った。
「大事だから」
穏やかにリンズラーが言った。
ジェニーは小さく笑みをこぼした。
いつまでも生きていこう。このグリッド――青の連続体の中で。